春の風



さわさわと吹き付けては通り過ぎていく。
冬の身を切るほどの冷たさはなく、さりとて夏の蒸した空気を撹拌するだけのものでもない。
当たる勢いも感じる温度さえもやわらかい、春の風。






「すごい風」


煽られ、顔にかかる髪をそっと手で押さえたは、縁側に腰掛けたままふと目を細める。


「全くだな。こう強くちゃ色んなもんが飛んじまってしょうがねえ」
「ギンコの『すごい』はそっちなの?」
「ん、違うのか?」
「違う、かな」


屋内に入り込んだ風が、ギンコの前に広げられた紙面や薬を小さく、時に大きく揺らし続ける。
当のギンコは危うい現状に収拾をつけるべく尽力しているようだったが、傍目には功を奏した様子もなく実際にも捗ってはいないようだ。
苦虫を噛み潰したような表情のまま、ささやかな騒動の源となる物達をどうにかしまいこもうとする姿に、はくすりと笑うと開け放されていた障子を片方だけ閉める。


「お、すまんな」
「どういたしまして」


風が少しだけ遮られて余裕ができたのか。
礼と共に顔を上げたギンコの目に、目をつぶったまま風に当たるの姿が映りこんだ。


「風が気持ちのいい季節、か」
「そうだね」
「…で、何が違うんだ?」
「え?」
「さっき言ってただろ」


問われて驚いたように目を開けたは、ギンコの指が差し示す、何とか収まったらしい物を眺めて心得たように微笑む。


「春の風は気持ちがいいし」
「まあ、確かにな」
「色んな香り運んできてくれるからすごいな、って」
「香り?」


再び堪能するかのように外へ顔を向けたに倣うように、ギンコも立ち上がって外へと目を向けた。


「若草の香りに花の香り」


ぽつりぽつりと挙げられる理由に呼応したわけでもあるまいが。
庭先に植えられた沈丁花の芳香が、一瞬強くギンコの嗅覚に訴えかけてくる。
伸び始めたまだ短い草は、風にゆるくなぞられ波打つ光景を作り出した。


「なるほどな」


ふわふわとした感覚は、春の陽気のせいだろうか、などと。
やがて、言葉どおりに得心した面持ちのまま煙草を取り出したギンコが流れのままに火をつけ。


「それに」


程なく立ち上った煙に、どことなく嬉しそうなの声が重なる。


「期間限定で煙草の香り、もね」
「そりゃ毎日じゃねえけど、何も春に限ったこっちゃねえだろ?」
「…だね」


くるりと振り向いて視線を合わせたの顔はやはり明るいもので、にやりと笑ったギンコは天を仰いで煙を吐き出す。


「そうだと嬉しいな」


再び目を閉じ、呟かれた言葉には祈るような響きが宿っていた。






さわさわと吹き付けては通り過ぎていく。
冬の身を切るほどの冷たさはなく、さりとて夏の蒸した空気を撹拌するだけのものでもない。
当たる勢いも感じる温度さえもやわらかい、春の風は。

いつの間にか煙草の香りに染め替えられて吹き続ける。