取るべきもの



波の音、子どもの歓声、蝉の声。
雑多な音が入り混じる中、の名を連呼する声が家中に響いている。


!」


案外、自身も化野の居場所を探し歩いていたのかもしれない。
既に何回目とも知れない呼び声に応じて、お盆を抱えたままようやくその姿を見せた。


「どうかなさったんですか?」
「おお、ちょっと聞いてくれ」


目当ての人物を前にして、明るい表情のまま化野は意気込んだように先を続ける。


「夏だ!」
「…確かに梅雨が終わった時から夏、だと思いますけれども…」
「そうじゃなくてだな」


が、端的過ぎるその言葉は、彼が思ったとおりの反応を引き出すことができなかったらしい。
心中の微妙さを前面に押し出したの言葉を慌てて遮ると、今度は会話が成立する程度に言葉を選んで紡ぎ始めた。


「夏と言えば、お前は何を思う?」
「夏ですか?」


唐突と言えば唐突な、しかし返答のしようがある問いに。


「そうですね。夏と言えばこれかしら」


うーん、と考え込んだは思い出したように横に置いてあったお盆を引き寄せる。

十分に水分を保って真っ赤に熟したそれは、呼ばれる直前に用意していたのだろう。
お一ついかがですか、と持っていたスイカを差し出した。


「うん、旨いなこれは」
「でしょう?朝方、患者さんが先生にって持ってきてくださって」
「そうか、後で礼を言っておかないとな」


勧められるままに一口、また一口とスイカを味わっていた化野は我に返ったように膝を一つ叩く。


「そうじゃないんだ、!」
「あら、違うんですか?」
「違うというか…ほら、もっと夏らしい行動があるだろう?」
「夏らしい、…行動?」


いそいそと脇に重ねてあった道具に手を伸ばし指し示してみせる化野の姿に、鸚鵡返しに言葉を繰り返すの眉間にうっすらとしわが刻まれていく。


「もしかして、先生がおっしゃりたかったのは虫取りのこと?」
「そうとも、夏と言えば蟲取り。これに尽きるだろう!」
「あの、『虫』取りですよね?」
「ああ『蟲』取りのことな」


いつの間に用意したのか。
虫取り網に虫取り籠、そして、つばの広い麦藁帽子。
それら全てを身に付けて見せた化野は、いまいちかみ合っていない会話を他所に、なぜか残った麦藁帽子をに手渡そうとする。


「さあもこれを被って」
「私も、ですか?」
「もちろんだとも」
「え、でも…あの」
「いざ行かん、魅惑の蟲の世界へ!」
「…盛り上がってるところ水差すようで何だが。とりあえず、落ち着けい」
「ギンコか?」


判断に困ったように躊躇すると、その手を取り今にも屋外へと飛び出そうとする化野の間に介入を果たしたギンコは、一望しただけでざっと状況を掴んだのだろう。
珍妙とも言える姿を改めて視界に納めると、深い深いため息をついた。


「何してんだよ、化野」
「何って見りゃ分かるだろう?」
「分かるが分かりたくねえな」
「複雑だな」
「お前に言われたかねえんだが」


じっと見ていると気が削がれるのだろうか。
はー、と大きく煙を吐き出すと、化野から傍らに困惑の表情のまま立っているへと視線を移し。


「あー…。もしまだやる事があるんならここは俺が引き受けるぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」


鶴の一声たるにふさわしいギンコの提案は、お茶をお持ちします、と言う言葉と惜しみない笑顔を引き出すことに成功した。


「待て待て待て!、用事ならここにあるぞ!」
「止めろって。大体お前、蟲取ってどうすんだよ」
「そりゃあ世にも珍しい蟲の標本を…」
「作らんでいい」


口を差し挟む隙もなく目の前で繰り広げられる会話に異議を唱えることができたのは、がこの場から姿を消した直後の話。
かくして、化野の蟲取りは決行されることなく頓挫することと相成った。


それからと言うもの。


「虫は虫でも、真っ先に取っておかなきゃならん虫があるようだな」
「一人で何、ぶつぶつ言ってんだ」
「何、気にするな。ただの独り言だよ」
「………そうか?」


誰もが予想し得なかった…かもしれない『虫』取りを、ひっそりと企む化野の姿が、時折ギンコの周りで見られるようになったらしい。