『…ねえ、ギンコ』
あれは去年の今頃のことだったか。
『お願いが、あるの』
いや、今よりは少し日付が小さい頃のことだったかもしれない。
笑顔を、泣かれることよりもずっと痛いと感じたのは。
「、どうした?」
「え?」
話しかければじっと耳を傾け相槌を打ち、時に笑い声も上げる。
いつもどおりに家事をこなし、何の落ち度も見受けられない。
「気分でも悪いのか?」
ただ、ふとした瞬間に。
が心ここにあらずな様子でため息をついて、ぼんやりとしていることが多くなった。
「あ、ううん。なんでもないの、なんでも」
「…俺には、とてもじゃないが何でもないようには見えんがね」
「……」
幾度か同じ質問を繰り返して得られたのは、代わり映えのしない似通った答え。
無意識の内に漏れたため息は思いもかけず深く大きすぎたようで、は身体をびくりと震わせて俯いてしまった。
「何でもないならそれでいいんだ。俺の気のせいだろ」
「…うん」
「気にすんな」
本人が言いたがらないものを根掘り葉掘り聞き出すのも憚られ、話を打ち切ろうとした矢先。
「…ねえ、ギンコ」
握り締めた手を胸元に押し当てて、自分を奮い立たせるように深呼吸したが口を開いた。
「お願いが、あるの」
「んあ?」
「あの、聞いてくれる?」
余程のことなのだろう。
まさにおずおずと言った様子で、未だに言いづらそうに口ごもっている。
「ああ。俺が聞けることなら何でも」
なかなか次を言い出そうとしないに催促するような視線を向けると、諦めたように息を呑んで小さく頷く。
「あの、ね。ギンコ、明日にはもうここを出るつもりでしょう?」
「そのつもりだが」
「もう少し…」
「うん?」
消え入りそうになる語尾を聞き取れずに頭を傾けて再度耳を澄まと。
「もう少し、長くいられないかなって」
今度ははっきりとした口調で抱え込んでいたものを吐き出した。
いい返事など、おおよそしてやることのできない彼女の願いを。
「…、俺は…」
「ギンコが一つの場所に長くいられないことは、ちゃんと分かってる」
「だったら」
「後一週間でいいの」
珍しく食い下がる表情は真剣そのもので。
「もう少しだけ一緒に…」
「…」
かといって承諾することもできずに名を呼び口を噤むと、ははっとしたように動きを止めた。
実際にどのくらいの時間が経ったのかは知る由もないが。
随分と長く感じられる沈黙と、合わされた視線。
「やだ、もう。ギンコったら」
眉根を少しだけ寄せたの顔には綺麗な笑みが浮かぶ。
「本気にした?」
「あ、ああ…」
「ふふ、人がいいのもほどほどにしないとだめよ」
「肝に銘じておくよ」
綺麗な、それでいて痛みを伴う笑顔。
その後はまったく普段と変わらぬ様子で。
けれども、それが本意ではなかったであろう事は消しがたいイメージとして今でも脳裏に残っている。
できれば。
あんな顔はこれから先、二度と見たくはない。
背負った荷物を軽く正して、見え始めた目的地へと更に歩みを速める。
「あ、ギンコ!おかえりなさい」
ちょうど、何かをしようとしていたのだろう。
外へと出てきた勇ましい姿のが目ざとく俺を見つけて、大きく手を振り続けている場所まで。
気がつけば走り出していた。
2005.12.27