早朝特有の清冽な張りつめた外気。
一日の始まりに必要な水を汲みに集まった女性たちの囁くような談笑が聞こえるほかは自然の音しか聞こえてこないような静けさ。
そんな、いつもと変わらない朝の風景は。
「あ、姐さん!!」
泡を食ったようなトッシュ組組員の大声によってぶち破られた。
広場の中央、水の珠が安置されている泉を囲む女性たちの視線がいっせいに組員へと向けられる。
もちろん、トッシュ組の家事を預かるも例外ではなく、目の前まで駆け込んできて荒い息をつく組員を驚いた表情のまま見守っている。
「だいじょうぶ…」
ぜー、ぜー、ぜー…。
「…じゃ、ないみたいね」
ひしゃくを手に取りすくった水を差し出すと、組員は一気にそれを飲み干した。
「で、どうしたのよ?何かあったの?」
「そ、そうでした!…親分が!!」
「トッシュ兄が?」
勢いに押され気味だったも、相手のただならぬ様子に密かに眉をひそめ次の言葉を待つ。
「親分が!苦しそうに寝込まれたまま、起き上がりません!!!」
空気を盛大に揺るがす大音声。
水辺に集まっていた女性陣は何事かと再び振り返り、餌をついばんでいた小鳥たちは一斉に飛び立つ。
そして、は。
「………は?」
いなくなった鳩の代わりに豆鉄砲でも食らったような表情を浮かべた。
「うわ言で姐さんの名前をずっと呼ばれて…!」
「…はあ」
この場に漂う空気も表情をも読む余裕がないらしい組員は、のんびり構えたままのの腕をつかむ。
「さあ!水汲みなんざあっしらに任せて、早く親分のところへ!!」
「いや、それって単に風邪でも引いたんじゃないの?…って」
「さあ、さあ!」
「ねえ、聞いてる?」
のささやかな意見は聞き入れられることなく。
いつの間にか増殖していた組員に連れられて屋敷へめでたく強制送還。
「37度8分」
あっという間に人だかりが出来ているトッシュの部屋から、組員たちを追い出して。
とりあえず熱を測らせたが呆れ顔で数値を読み上げる。
「全然たいしたことないじゃない」
「……バカ、おめえ…38度もあるんだぜ…?」
「あのねえ」
体温計を片付けながら、未だ枕に頭をつけた状態のトッシュを見やった。
「平熱が37度あるのよ?38度にも達してなければただの微熱でしょ」
すっぱりと言い切られたトッシュは不満げな表情を浮かべる。
「なによ?」
「…つめてえ…」
深い、深いため息をつかれ、は先ほどとは違う意味を込めて眉をひそめた。
「、お前がそんなに冷たい女だとは思ってなかったぜ…」
そっぽを向いて、完全にぶちぶちといい始めたトッシュに処置なしとばかりには肩をすくめる。
いずれにせよ病人には食事と睡眠が必須。
その準備のために立ち上がりかけたの左手首に強い拘束感。
「…どこ行くんだよ」
「ご飯食べてお薬飲まないと治るものも治らないでしょ」
仏頂面で呟いたトッシュはつかんだ手を離そうともせず。
「いらねえ」
と、一言のたまった。
は赤い顔でへばっているトッシュを眺め、つかまれた手を眺め、再び顔へと視線を戻す。
一瞬の沈黙の後。
「トッシュ兄!!」
「腹も減らん、薬もいらん」
「わがまま言わないの!しんどいんでしょ!?」
「ああ」
「じゃあ…」
「だから」
「?」
熱出してへばっている割には迫力と精神力はいつもどおりで。
仕方なくが口をつぐむと、トッシュの表情も和らいだ。
言い出したら聞かない頑固さは今に始まったことではないと割り切っているのか。
蒲団の端に腰を下ろしたは組員たちが用意してくれてあったタオルでトッシュの汗をふき取り始める。
穏やかな時間がしばらく続いて。
不意にトッシュが口を開く。
「が…」
「うん?」
「お前がここにいりゃいーんだよ」
そしたら治る、などと臆面もなく言い切ったトッシュの表情は照れるでもなく、いたって普通なまま。
「ばかね」
「んだと」
「そんなことで治るわけないでしょ、風邪が」
「治る」
「はいはい」
軽くいなす振りでもって、は口元に浮かんだまんざらでもない笑みを隠す。
「それで?みんなの食事はどうするのよ」
「そんなの勝手にするだろ」
「私に風邪がうつったら?」
「今度は俺が看病してやっからよ」
「まっぴらごめんだわ」
きっと、大いに悪戦苦闘するであろうトッシュの姿を思い描いてくすりと笑う。
「もう、いいから寝ちゃいなよ」
まぶたにひとつ。
頬にひとつ。
そして、くちびるにもキスをひとつ。
「………おう」
「これで終わるのが不満ならさっさと治すことね」
「おう」
おとなしく眠りについたトッシュの体温を腕に直接感じながら。
ちょっとサービスしすぎたかな、と。
苦笑もひとつ。
2005.09.21