フェンスの向こう



青い、青い空。
雲ひとつなく、その清々しさにかえって嫌気がさすほどの青さ。

視界は、じきに良好になる見通し。
このフェンスを越えてしまえば、遮るものなど何一つなくなるから。

気分も上々。
このフェンスの向こうには、私にとっての自由が待っているはずだから。


「そう」


私は、自由だ。




近隣では一番の高さを誇るビルの屋上。
はフェンスにもたれて、遠く大きく広がる空を眺める。
ネットに落ちていた古式ゆかしき『伝統』のデータに倣って、靴はすぐ隣にきちんと並べ置いたまま。


「これで見納めと思うと、こんな景色でもちょっとは感慨深く思えるもんね」


自嘲気味に口の端を歪めて一人、声もなく笑った。


「さて、と」


迷うことは、もうないはず、と。
身体の向きを180度変えて、目の前にそびえるフェンスをゆっくりと見上げる。

手をかけた場所から響く軋んだ鉄の音と感じられる冷たさが、徐々にの表情をこわばらせていく。
上りきるまで後わずか。

視界に入った震える手が見えないように目を瞑って大きく息をついた。


「……」


二度、三度と。
身体を前へ傾げようとして失敗を繰り返し。


「どうして…!」


悔しくてフェンスを強く握り締めたの脳裏に、別の人物が介入を遂げたのはほぼ時を同じくしてのことだった。


『それはやはり、まだ未練ってヤツが残ってるからじゃないですか?』


が起こそうとしている行動を目の当たりにしている割には、不釣合いな落ち着き払った声。
音声のみが繋げられた状況は、より一層、抑揚のなさを際立たせた。


『…誰よ、あんた』
『通りすがりの覗き常習者です』
『なにそれ。…ま、そんなことはどうでもいっか』


冗談には思えない声のトーンに毒気を抜かれたように投げやりに言葉を濁す。


『今、取り込み中なんだけど。私になんか用?』
『これと言って用があるわけではなかったんだけど』
『?』
『声をかけちゃった以上、あなたの行為を見過ごすのは幇助罪か何かに問われるかな』
『…私に聞かないでよ』
『確かに。じゃあ…そうだな』


吹きさらされた髪が向きを選ぶことなく宙を舞い続け。
は強く通り過ぎる風に身体を持っていかれないように、しっかりと体勢を保つ。


『動機は何なんです?』


本人がまだ認識し得ない所で表面化しつつある意識と無意識の矛盾。
それを助長するかのように会話は続いていく。


『つまらない、から』


問われて考え込んだは、なんであんたに、と切り返すことなく。


どんなに素晴らしい情景が目の前に広がっていたとしても、何も心に響いてこない。

つまらない世間。
つまらない関係。
つまらない、自分。

そんな自分にうんざりして、全部捨てて楽になりたかった。
安易な逃げを選びたかった、と。


思わずと言った様子で心の内を吐き出してしまうと、すとんと肩から力を抜いた。


『その選択肢から得られるものは何もないと思いますよ』
『それでも。ただ、逃げたかった』
『あれ、過去形なんですか?』


繋がった先でかすかに笑う気配。
一歩一歩、足先を掛けてゆっくりと降り始めたは、まるで憑き物が落ちたようにすっきりとした面持ちで笑い返す。


『つまらなくない、って思えるもの。できそうだから』
『ああ、いわゆる好奇心てヤツですか』
『うん。…ううん、ちょっと違うかもしれない』
『へえ?』
『ね。あんたの名前、教えてよ』
『僕ですか?アオイです。まあ、とりあえずは初めましてって言うのが妥当かな。ねえ、さん?』
『え?』


名乗りあげる前に受けた指名に大きく目を瞬かせ。


『なんで私の名前…』
『気になるなら一度、会ってみますか』


歓迎しますよ、との言葉には強く頷いた。


『じゃあ、早速ヒントを』
『ちゃんとしたアドレスを教えてはくれないわけ?』
『大丈夫。あなたなら多分、ちゃんと分かりますから』


一方的に送られた映像には、青いコートを無造作に引っ掛けた椅子の傍で膨大な情報に埋もれるようにして佇み、誘うように手を振る人物が映っている。


『この「情報の墓場」に、ね』


蓄積された記憶に符合するイメージに、脱ぎ去った靴を履き直すのももどかしげに駆け出したが扉の向こうへと姿を消した。




青い、青い空。
雲ひとつなく、その清々しさにかえって嫌気がさすのはまだ変わらないままだけど。

あおい、っていう言葉の響きだけは。
嫌いじゃなくなったのかもしれない。


お題配布元:ドリーマーに100のお題